ここ数年で、生成AI、とりわけコーディングエージェントと言われるものを仕事がら使うことが多くなった。使わざるを得ないという方が正しいかもしれない。
一日の大半の時間をコーディングエージェントと一緒に過ごすようになっている。
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彼らはまるで優秀な同僚のように振る舞ってくれる。
自分よりも世の中の情報を知っているし、情報を検索し整理する能力も高く、程よいクオリティのものを作り出す速度も尋常じゃなく早い。
0 → 1にする速度がとにかく早い。
日常生活における盟友でもあり、何かを達成したい時には強力なサポーターとして振る舞ってくれる。
まるで大学の教養科目の授業を受けたい時に受けられるような状態をつくってくれる。
とてもいい時代だ、最高じゃん、何でもできる。
素直にそう思えればいいのだけど、どうしても素直に思えない自分もいる。
莫大なエネルギーを喰らいながら、人類全員が豪華客船に乗り続けているような感覚があるから。
あまりにも犠牲にしているものが大きすぎるんじゃないかという直感があるから。
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ところで、自分は10年前くらいから人が生活をする中で使う「道具」のコストに強い関心を持ちながら生きている。
人が心身健康に生きていくためには、生身だけでは実現できない、身体の拡張としての存在である「道具」がとても重要だと思っているからである。
また「道具」は「薬」のようなものだと思っている。
「薬」を飲むときは何か治したいもの、改善したいものがある場合だろう。
逆にいうと改善したいものがない場合は「薬」を飲んではいけない。
当たり前だが、「薬」は「作用」「副作用」があり、取り扱い注意だ。
色々端折るが、つまり「道具」を使う場合も「作用」「副作用」を意識すべきだという主張がしたいわけだ。
道具の「副作用」を意識しておかないと、無限に道具が進化すればそれで良いじゃん、という脳天気な雰囲気を生みかねない。
取り扱い注意だということを認識できない。
だけども困ったことに「道具」の「副作用」は意識しにくいものでもある。
作られて運ばれて、利用者が使用するまでの全ての過程を考慮すべきだが、ものによっては想像できないくらい複雑な過程で「道具」は生まれ使われる。
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ここでやっと生成AIの話に戻ってくるのだが、生成AIは極めて複雑な道具である。
その構築理論のみならず、前提としているものが人類の数十年数百年の蓄積(データ)がベースになっていたりと、捉え方によってはとんでもない人数の人々が関わった結果生まれた道具である。
それは人類の叡智の結晶としての「道具」かもしれないが、果たしてそれが生み出す「作用」「副作用」を記述することはできるだろうか。
「作用」が魅力的なのは間違いない。
日々、無限に近い利活用の事例がネットの海に放流されている。
けど、その「薬」は適切な目的に使えているだろうか?
目的を失った「過剰摂取」になってないだろうか?
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長く健全に使える「道具」にするためにも、ニヒリズムには陥らずに「作用」「副作用」を自分なりに探りながら、生成AIとは向き合っていきたい。






